Works

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photo:Hiroshi Shinozawa

富士見が丘の住宅・・「屋上」を持つ家    竣工日:1991.06

所在/神奈川県横浜市  用途/専用住宅  家族構成/夫婦+子供1人
構造・規模/木造 2階建
敷地面積/130.00㎡  延床面積/77.84㎡  建築面積/42.61㎡
地域・地区/第1種低層住居専用地域 指定なし

Concept 

敷地は,広大な分譲住宅地の一画に有る。この分譲地で見られるようにその多くは,道路によってできたブロックを,切土盛 土によって平らで均等な面積に各敷地が区分けされている。インフラはもちろんきちんと整備され,緑道や公園がある単位で配置された一つの理想とされる均質 な街並が形作られている。戸建て住宅に住みたいと思っている多くの人たちは,このような管理された均質な環境に心地よさを感じて家を建てる。その行為は, 外廊下型マンション(分譲地の一街区はまさにそのプランに見える。)の一室を改装することとなんら差異がない。しかし,分譲地に住宅を建てることは,行為 としてマンションの改装と変わらないとしても,建築的には個別の形を持ってしまうという明らかな違いがある。そんな訳でこの計画においては“形”を作るこ とを意識した。そして,具体的な“イメージの家”が立ち並ぶコンテクストの中で,形の持つ差異を求めて,安易ではあるが,抽象的な箱形の組み合わせによる 構成を考えることにした。「富士山を眺めるための屋上がほしい。」というクライアントの要望から陸屋根を作る必然性もあり,箱形は次第に具現化していった のだが,軒を突き合わせる街並みの構成から少しでも開放されたいという思いが,大きくこの形を決定づけていったように思う。また,大きな箱形の2階に,生 活の中心となる居間食堂を配したのだが,そこには時間の経過と共に光が映り込むように,光の箱としての階段室を別にはりつけるなどして,空間に現象を与え るように試みてもいる。つまり,このようにして形を作ることや,空間に現象を与えることは,作られた均質で快適な環境において,この建築が個別に持つ実体 を,素直に感じてもらうための意図を含み込むものだった。

掲載誌/新建築住宅特集'91.12 ニューハウス'92.07 住宅建築'97.02

<コンビニローコスト住宅>
“ローコスト住宅”は,戦後の復興期から現在にいたるまで,建築に関わる人たちに社会が投掛け続けている課題であり,それに対しこれまで多くの解答がなさ れてきた。50年代は“最小限住居”からその議論が展開し,バブル期では“ローコストのファッション化”が問われた。そして今では環境問題・エネルギー対 策にまでこの議論は発展している。もちろん“ローコスト住宅”を考える根幹は,“ローコスト化を図る”という経済的観点において,手法の問題,流通システ ム等の面を住宅を作る現状において掘り下げていかなくてはならない。しかし,不動産の資産価値が幻想化し,貨幣の価値基準が不安定である現在の経済状況に おいて,所謂坪単価でのその賛否は希薄な意味しか持ちえなくなり,経済的な問題でありながら経済的側面を考えることにおいていろいろな矛盾をはらんできた ように思う。一方住宅産業という巨大な市場に目をむけると,“価格破壊”が騒がれる中,ハウスメーカー等が合理化によるコストダウンを図り,厳しい競争の 中で次々と製品化を進めている。また,海外からは豊富な資材と様々な様式を持った住宅が,貿易価格差を背景にどんどん国内に流れ込んでおり,これらは大衆 消費経済という支持基盤の上で社会に受け入れられて定着し,ますます住宅の商品化に拍車をかけている。また土地の面においても,現在開発されている分譲宅 地の多くは,土地だけを売るのではなく住宅設計もセットで売るといった,今までとは別の建売り化が進んでいて,こうした土地開発・住宅販売が一体となった 戦略が,新たな住宅産業というシステムを活性化し続けている。現在ローコスト化を図る商品販売は,全て大規模チェーン展開を目指しており住宅産業も例外で はない。その意味で,分譲住宅地は住宅のコンビニになり得たと言えるが,それは企業が社会に敏感に順応した結果なのである。そんな“コンビニローコスト住 宅”が建ち並んでいく状況で,個人の作り手が“ローコスト住宅”をそれに対抗して作っていくことは極めて困難なことである。そんなことは実はずいぶん前か ら明らかなことで,「建築家が“ローコスト住宅”などあえて積極的に考える必要はないのだ。」という意見もある。しかしその態度には,流動し続ける社会の システムに目を背けた,独り善がりの表現主義に陥る危険性が感じられる。ただでさえ建築家という人種はこだわりの表現に固執しやすい。ローコストを要求さ れることは,独り善がりになりがちなこだわりを,自ら排除していくための“外圧”として有効に機能しているとも言えるのかもしれない。ところが“コンク リート打放しの住宅”においてはその“外圧”が有効に機能しなかった。バブル期のころそれは“ローコスト住宅”をファッション化する対象になった。70年 代後半,安藤らによって提案された一連の住宅には,“ローコスト住宅”の理念を持つストイックな都市住居としての主張が,コンクリート打放しによって鮮明 に表現されていた。そのコンクリート打放しは,都市のコンテクストの中で力強く,荒々しく,ローコスト建築の美学のようなものさえ感じられた。ところがそ の後,“表現としてのコンクリート”だけが注目されると,コンクリートの性能を上げていく技術が,きれいなコンクリートを打つための手法に転化し,仕上材 としての表層の部分が一つの表現手段として固執される対象となった。そこにはもはや,“ローコスト”の理念はなく,建築家のこだわりの表現主義を助長する ものとなってしまった。今では,“コンクリート打放し術”なるものも一般化し,以前に比べて安くできるようになったが,現在のコンクリート打放し住宅とい う手法には“ローコスト住宅”の偽装化しか見えてこない。

<負けない“ローコスト住宅”>
ともあれ,消費経済に歯止めがきかない現在において,“コンビニローコスト住宅”に「負けないローコスト住宅」はどのよ うな方法によって作り得るのだろうか。一つには,住宅の計画的側面からも問われてもいるが,「これまでの住宅における様々な形式を解体していくこと」に よって,現代の住宅においては必要ないとされたり,陳腐化しているものを取り除いていくような,実に古典的な方法が挙げられると思う。その方法において は,日本の住宅が作り上げた間取りの形式や形骸化された和室など,住宅の中にある形をもって現れることはもちろん対象とされるが,前述した中にあるよう な,作り手がこだわり続けている手法もその解体される形式の対象にする必要があると考える。それは長年培った技術を切り捨ててしまうということではなく, その技術を一つの選択肢として考え,必ずしもこだわりをもって作り続けるという重い考え方から作り手自身を解放していくということを目的とするものであ る。大切なのは,前者の形骸化した住宅における形式を崩して,新たな住宅の形式を発見していくことであり,後者の重たいこだわりがその障害になってはなら ないのだ。もう一つは,“職能”に含まれる責任を果すことで,「品質を見守る」という行為が挙げられるが,“コンビニローコスト住宅”における品質管理も 十分になされていると信じるとすれば,対抗するのは難しい。しかし,住宅という物作りの行為が,個人と個人のコミュニケーションに基づくものであり,作り 手が建主と完成までその関係にあるということにおいては,非常に大きな意味を持つ差異になり得る。ここに提起した住宅二題においても,“負けないローコス ト住宅”を実践してきたつもりである。自分の中にある表現のこだわりを減らしていくことで,その条件におけるいろいろな発見の機会となった。だが一方で, 特に「富士見丘の住宅」において顕著だが,急激に変化した経済状況の中でその坪単価を見ると,矛盾とむなしさを感じずにはいられない。それでも“ローコス ト住宅”が,戦後から問われ続けてきた社会的な課題であるならば,建築家はそれをキーワードに提案をし続けることで,社会と一つの確固たる関りを持つこと が可能で有り,そのことは間接的に時代に新しさを与えることになり得るのだ。


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